Clockwork Angels the Novel - summary(part5)






第22章


 こんな場所では、過去を忘れられる。それはまさにオーエンが望んだことだった。少なくとも、過去の一部を忘れようと。悪夢から逃れ、夢へと向かうために。
 アルビオンの静かな生活では、道路やスティームライナーの線路が通っていない土地のことなど考えたこともなく、そこへ行こうとも思わなかったが、今、オーエンは道なき道を自分で切り開いて歩いていく自由に浸っていた。行きたいところへ行き、誰に遠慮することもなく、見たいところを見る自由が。彼はあまりコンパスに頼らず、思いつきで方向を決めていた。そこへ行ってみたいからと言う理由だけで崖に上ったりもしたが、そこからの眺めはその労力を十分埋め合わせてくれるものだった。
 山脈の中腹から眺めてみると、なだらかな緑のスロープが眼下に広がり、その向こうは広大な砂漠になっていた。森林地帯を抜ける時、オーエンは出来るだけそこからとれる食べ物で食事をまかなった。エンドゥラインの猟師が食べられる果実や木の実、きのこや葉っぱを教えてくれたので、それを食べていれば、保存食料を節約することが出来たからだ。眠る時には、木の陰の柔らかい草の茂みに寝た。そこはポセイドンの冷たい裏通りより、はるかに寝心地のいいベッドだった。
 ドリームラインコンパスの戻り地点はエンドゥラインに設定してあったが、行き先は気ままに揺れ続けた。オーエンは奇妙な岩の隊列が見える方向に、そして日が沈む方向に、来る日も来る日も歩き続けた。シーボラはこの先にある。どこかに。かつて誰も足跡をつけたことのない土地に、オーエンは自らの足跡をつけていった。
 進んでいくにつれ植物はまばらになり、潅木やメスキート、さぼてんと岩ばかりが目に付いた。空は抜けるように青く、周りに音はない。その中で、オーエンは聴力を失ったように感じた。時折起こるカラスの鳴き声だけが、唯一の音だった。その中を、彼は無心に歩いた。

 高い渓谷の壁に、古代の人々が残したであろうヒエログリフが刻まれていた。その文字は錬金術の記号のように、オーエンには理解できないものだった。七都市の住民たちはもういなくなってしまったのか。書店の店主がほのめかしていたように、別の世界に行ってしまったのか。それとも身を隠しているだけなのか――だが、もう一人の母の本には、彼らは素晴らしい文明を築いていたと書いてあった。その隠されたユートピアの一員に、自分もなれたら――ジャグリングをして住民達を楽しませたり、もし果樹園があったらそこの手入れをしてもいい――そんなことを考えていた。
 やがて壮大な石のアーチにたどり着いた。それは新しい世界への窓のように見えた。所々に見えるモニュメントや巨大なオベリスクは、巨大なきのこか巨人の積み木のように見えた。
 長い間道なき道を歩いてきたので、オーエンの足は痛んだ。レッドロック砂漠は不気味な永遠のように広がり、まばらなメスキートの潅木やさぼてん、そしてトカゲやさそり、ガラガラヘビしか見かけることはない。そして陽が落ちると、気温は急激に下がった。オーエンは震えながらメスキートの潅木の下に行き、毛布に包まった。砂漠地帯なら毛布は要らないと思ったが、パングロス提督が持っていくように言ったのだ。そして乾いた干草や潅木を集めて火をつけ、暖を取ったが、それはあっという間に燃え尽きてしまった。
 毎朝、彼は寒さに震えながら目覚めた。そうしている間に、持ってきた水はほとんど底をつきかけた。朝のうちは薄い氷の上にちょろちょろと流れる水を見つけることも出来たが、それを汲もうとすると、湿った泥にしかならなかった。
 遠くに、黄金に輝く時計台のような建築物が見えた。それを目指してオーエンは歩いていったが、近くに行ってみると、それはただの日にさらされた巨石群に過ぎなかった。

 持ってきた水を飲みきってしまい、翌日には食料も尽きると、水を求めて砂漠を掘ったりしたが、何も出てきはしなかった。こんな場所では、命を落としかねない――オーエンはその危険に改めて気づいた。いつか自分で本を書いて、提督の蔵書に加えてもらう――そんなことも考えていたが、このままだと本を書くことは出来ないだろう。
 オーエンは石を拾い上げ、ジャグリングを始めた。フランチェスカが彼を見ているような気がした。しかし石を落とした瞬間、フランチェスカの幻は消えた。

 遠くに輝く白い湖と、メサ(高台)が見えた。あれが太陽と月の間の湖だろうか。あの高台の上に、シーボラがあるのだろうか――オーエンは気力を振り絞り、そこを目指した。あれは蜃気楼なんかじゃない――そう信じ、そこへ近づき、水辺に跪いて両手を浸したが、そこにあったのは水ではなく、塩だった。それは塩湖――遠い昔に水が干上がって、塩原だけが残ったものだった。オーエンは塩の涙を流した。
 しかしその向こうに見えるメサの上に、目指すシーボラがあるのではないか――オーエンは気を取り直し、そこへ近づく。見上げるような高い崖の上にある台地――その崖にはあちこち小さなでっぱりがあるが、そこを登らなければ、七都市にはたどり着けない。彼のもうひとりの母も、そうやってたどり着いたのだ。それはユートピアに入るための、最後の試練、必要な通過儀礼だと思えた。
 のどはからからに渇き、空腹で力も出なかったが、オーエンは最後の力を振り絞って、崖を登り始める。登りながら、彼はクロノススクエアから旗飾りのロープをつかんで、タイムキーパーの寺院の壁を登ったことを思い出した。彼は小さなでっぱりをつかみ、自分の身体を上に引き上げ続けた。シーボラがこの上にある。自分を待っていてくれる――
 そしてとうとう登りきり、頂上に達した時、彼が目にしたのは一面の茶色い草むらだった。たしかに町はあった。日にさらされた建物、多くは二階建てくらいで、窓が骸骨の目のようにうつろに開いている。伝説の都市は、バレル・アーバーとあまり変わらない大きさで、そして人々の影もなかった。
 オーエンは自分の目が信じられず、憑かれたように町をさまよった。シーボラはとうの昔に滅んでしまっていた。真実は忘れられ、気まぐれな記憶のかけらと、誇張された伝聞だけが一人歩きした。人々はどうして滅んだのか――もしくは別の場所へ行ってしまったのか。混乱と無秩序のためか、それとも統制が行き過ぎたのか――
 そこは亡霊の街だった。建物は宮殿ではなく、あばら家に過ぎない。黄金の都市に黄金はなかった。愚か者の黄金しか――『もうこんな馬鹿なことはやめなければならない――』廃墟の町には会話や笑い声はなく、窓を吹きすぎる風の音だけしか聞こえなかった。他には何もなかった。





第23章


 理想と現実とのあまりの乖離に打ちのめされ、オーエンは廃墟の街に座り込んだ。喉がからからに渇き、空腹で、途方にくれて、彼は近くの建物の中に入り、涙を流した。そしていつの間にか、眠り込んでしまった。
 彼の夢は冒険へと駆り立て、一つの夢が破れると、またその次へと続けてきたが、一つとし成就したものはない。これはウォッチメイカーの教えなのかもしれない。自分のいる場所を離れるべきではないのだという――そして今彼は広大なレッドロック砂漠の只中で、はるか昔に滅びた町にいる。
 しかし目覚めた時には、不思議と新鮮な気分を感じた。空気はひんやりとしていて、彼は少し街を探検しようと言う気になった。町の建物はレンガと天日瓦で出来ていて、黄金ではないが、しっかりとした作りだった。屋根は長い間の年月と重みでところどころ崩れてはいたが、柱や壁はそのままだ。歩いていると、彼は水がめに長い間の雨水がいっぱい溜まっているのを見つけ、心ゆくまで飲んだ。そして幾分元気を回復すると、さらに探索を続け、元の納屋らしきところにまだ封を切っていない、玉蜀黍の袋を見つけた。かたくて噛むのは大変だったが、栄養にはなる。さらに火を通せば、もっと食べやすくなった。そうして彼は何日も何週間も、たった一人で過ごした。元の畑だったところには、遠い昔に住民たちが植えただろう野菜が――大部分は種に戻ってしまっていたが、収穫できた。野生のたまねぎやにんじんが。それを食べ、水を飲み、誰もいない家の中で眠り、その静けさの中で、彼は力を回復していった。はじめの数日は何も考えず、その後にはこれまでのことをいろいろと考えた。町の中で見つけた小石でジャグリングをし、時に天井に上って、細い梁の上を歩く練習をした。バランスをとるために両手を広げ、余裕が出来たらジャグリングをして。時計もなく、しなければならないこともない今、彼はその自由を楽しんでいた。
 力が回復すると、彼はこの台地の上にあるはずの、他の六都市を見つけてみようという気になってきた。シーボラは滅んでしまったが、まだ栄えている街もあるかもしれないと。

 町のはずれから古い街道のあとが伸びていた。それをたどり、草もまばらな道を歩いて、オーエンはもう一つの町を見つけた。そこも同じように、無人の廃墟だった。色あせた黄色の建物群は、かつては金色に塗られていたのだろう。そこでまた日々を過ごし、さらに次を目指す。そうしてまた二つの町を見つけたが、やはり同じように人のいない廃墟だった。しかし建物はどれもしっかりしていて、古い畑や倉庫には食物もあり、水もあったので、そこで生きていくことが出来た。そうしているうちに、冬が訪れた。
 りんご農園にいた頃は、毎年父は冬に備えて準備をしていた。枝を払い、掃除をし、果汁を絞って、残ったりんごを倉庫に保管した。オーエンもそれを手伝っていたが、彼は確かにそれを楽しんでいた。春になると新しい木を植え、夏の間ずっと世話をし、そしてできたてのアップルパイを食べることも――離れてみると、その良さがわかるものだ。
 冬が訪れると、雪が降った。それは台地を白く変えたが、陽が上り、空が青く澄み渡ると、淡雪のように溶ける。その繰り返しだった。静寂だけを道連れに暮らしているうちに、彼は今までにあった人々を懐かしく思うようになって来た。パングロス提督やカーニバルの人々、フランチェスカやグェレーロさえも。
 静かな街に暮らしているうちに、また落ち着かない気持ちになっていく。バレル・アーバーにいた頃、彼は夢見た。世界のすべてを見てみたいと。でもまだすべてを見たわけじゃない――そうしてまた彼は新たな道をたどっていった。
 五つ目の町が見つかった。そして六つ目も。だがどれも静寂の中、遠い昔に打ち捨てられた町だ。新しい町を見つけるにつれ、ろうそくが吹き消されるように希望は消えていった。だが人のいない、ほとんど忘れ去られた町であっても、自分が訪れ、見ることによって再びその町を実在のものとすることが出来る。
 そして冬の只中に、彼は七つ目の町にたどり着いた。そこは台地の北のはずれにあり、石のアーチと二つのモノリスが町の入り口となっていた。しかしそこも、他の町と同じように静寂の廃墟だった。とうとうすべて行きつくしてしまった。夢見ていたユートピアはなかった。他の世界では――彼のもう一人の母のいる世界ではあったそれが、この世界では無人の廃墟になっている。町からは眼下に広がる深い渓谷と、緑の川が見えた。建物は驚くほど傷んでおらず、まるで掃き清めたかのようだった。その中に入り、オーエンは町の門から外を眺めた。悲しみを感じながら。足は痛かったが、それ以上に希望や夢も傷つき、心は痛んでいた。
 ちょうどその時、日が沈み、町が黄金色に染まった。日の光が道路や壁に反射し、巧みに建てられた建物の壁に照り映えて、ウォッチメイカーの蜂蜜よりも見事な黄金色の光に彩られている。その光景に、オーエンは息を飲んだ。それは今まで見た中で、もっとも信じられないような、目を見張る景色だった。あの天使たちでさえ、見とれたに違いないほどの――
 しばらくの間、時が止まったように、その景色は輝いていて見えた。そして日が沈んでしまうと、それはかき消すようにふっと消えた。そこにあるのは、見慣れた、寂れた壁だけだ。
 オーエンはしかし、最後に思いがけない贈り物を得たような気分だった。そして今までの行程がなければ、きっとこれほどに強い印象を自分の中に刻まなかっただろうとも思った。その美しさを、これほどの感銘を持って受け取れなかっただろうとも。黄金の七都市の真の宝は、黄金ではない。ユートピアでもなかった。それは冒険と夢――そしてその自分の体験を、誰かと分かち合いたいとも思った。今は、元の世界へ戻る時だと。

 ドリームラインコンパスの戻り地点は、ずっとエンドゥラインに設定してある。それゆえ、道に迷う心配はなかった。一番最初にたどり着いた町の跡地で彼は食料と水を補給すると、砂漠に戻った。旅の経験から、彼は賢くなり、もっと計画的に水や食べ物を消費するようになった。昼間は潅木や岩陰で休み、過ごしやすくなってから動く。そうすれば水の消費は抑えられると。
 エンドゥラインまで戻ると、彼はあの酒場を訪れた。人々は同じようにそこにいたが、オーエンの痩せた、日に焼けた姿を目にすると、驚きの声を上げた。
「あそこから帰ってきた奴は誰もいなかった!」あの猟師が叫んだ。
「でも、僕は帰ってきました」オーエンは言った。我知らず、彼は微笑んでいた。
 村の人々は、彼を英雄のように処遇した。宿屋の主人は彼に食事と酒を奢ったが、オーエンにとっては存分に飲める清らかな水が一番のご馳走だった。そして彼は宿屋の柔らかいベッドに寝たが、寝心地は砂漠の岩陰とさほど変わりはしなかった。
 人々はオーエンに尋ねた。黄金の七都市は実在したのかと。それが人々の一番の関心ごとだった。そしてオーエンは考えた。本当のことを言うことは出来る。でも、それは輝かしい夢や伝説を壊すことになる、と。長い間、オーエンは黄金の七都市の伝説を心に大切に抱いてきた。その鮮やかな、輝かしいイメージは彼の心を躍らせ、楽しませてくれた。人々が歌っている、黄金の七都市の歌を思い出した。楽しげな、きらびやかなユートピアを。そしてその夢に動かされ、オーエンは実際に冒険に出かけた。太陽と月の間にある湖も、そして七都市のすべても見た。それは黄金ではなく、ただの天日レンガで出来た町に過ぎず、住む人もとっくにいなくなっていた。しかしそう告げることは、夢の終焉を意味する。かつて自分を導いてきた輝かしい夢は、今も他の誰かの心にもあるかもしれない。黄金の七都市の真の宝は、それが持つ夢なのかもしれない。それがある限り、希望は消えることはないだろう。
 この世にはたくさんの世界があるなら、他の世界では黄金の七都市は本当に、黄金でできたユートピアなのかもしれない。もう一人の母が書いていたように。
「レッドロック砂漠は広大です。僕はたくさんの素晴らしい景色を見てきました。でも、伝説のシーボラは見つけられませんでした」オーエンは微笑みながら、こう答えた。
「きっと伝説の黄金の七都市は、まだどこかにあるのかもしれません」

 その二日後、パングロス提督のスティームライナーがエンドゥラインにやってきた。そして近づいてくるオーエンを見ると、提督は目を見開き、ひげを逆立てて声を上げた。
「生きてたんだな!」
「そのようですね、たしかに」オーエンは笑って答えた。
 パングロス提督は驚きが抜けると、もう一度スティームライナーの助手にならないかとオーエンに持ちかけた。オーエンは感謝したが、ポセイドンまで同行したら、そこから他のところへ、もしかしたらアルビオンへ行きたい、と答えた。
「君は変わったな! またあの静かな村へ戻りたいとは」と笑う提督に
「いえ、そうとは言ってません」とオーエンは答える。彼はカーニバルのことを考えていたのだ。ただそこへ戻る勇気があるかどうかは、まだわからなかった。
「まだ先のことは、はっきりとは決めていないんですが」と、オーエンは言う。
 ポセイドンまでの道のりを、オーエンは再びスティームライナーの助手として、燃料をくべたり、舵をとって操縦した。そしてポセイドン市まで着き、積み下ろしの作業を終えると、パングロス提督は未払いの賃金を払うといって聞かず、かなりの金額をオーエンにくれた。そして海を渡る船に乗る手伝いをしてくれた。
 船長たちはパングロス提督を知っていて、彼の口利きで、次にアトランティスを出港する船に乗ることが出来た。それは偶然にも、最初にここへ来た時と同じように、ロッチ船長が指揮する船だった。「ウォッチメイカーのミッションは終わったかね?」と船長は聞いた。「いいえ、まだです」オーエンは答えた。「でも次に移りたいので」
「前に乗った時、君はいい働きをしてくれたよ。今度はそれほど船酔いしなければいいね」船長は言った。オーエンはパングロス提督がくれたお金をすべて取り出し、驚いている船長に渡した。
「これはここに来る時あなたに借りたお金と、それから往復の船賃です。僕はウォッチメイカーのミッションで来たのではないですから」
「本当にそう言えるのかい?」そういう船長に、オーエンは返事が出来なかった。





第24章


 帰りの航海は、行きほどひどい船酔いには悩まされなかった。慣れたのか、それとも追われて逃げ出した行きの航海より余裕が出来て、彼自身が落ち着いたのかもしれない。オーエンは船旅を楽しむことが出来、しばらくはこの仕事をしてもいいかもしれない、と思っていた。
 ロッチ船長とデッキで食事をしながら、オーエンはこれまでの話をした。クラウンシティを追われることになったあの騒ぎだけは語らなかったが、バレル・アーバーのこと、カーニバルのこと、そしてその後のことを。バレル・アーバーの話をするのはオーエンのノスタルジアをかきたてたが、もはやはっきりした記憶はなく、霧の中の思い出のようであり、カーニバルの話はフランチェスカの拒絶がやはり今なおオーエンの心の針になって、かなりはしょったものになった。しかし、もしフランチェスカが彼の求愛を受け入れたなら、それからの冒険はなかっただろう。そう思うと、彼女の拒絶も無意味ではなかったのだと思えた。
 ロッチ船長は興味深く話を聞きながら、オーエンが語らない何かがある理由をおぼろげに理解し、そして言った。「ここで働いてもいいがね、若者よ。しかしここの仕事もさほどロマンはないだろうな。わたしも昔は船の船長というものは冒険の連続だと思っていたが、実際はクラウンシティとポセイドンの間を行ったり来たりするだけだ。でも私はこの船に満足しているし、君がそれだけの冒険をしてくれたのだから、その話で十分だよ」

 翌日、空には雲が多くなった。オーエンはデッキに出て、天気が荒れてまた波が高くなると、船酔いに悩まされるのではないかと若干不安に思いながら空を見た。二人の水夫は相変わらず甲板でチェスをしていた。オーエンは船長に何か仕事はないかと聞いたが、もう料金はもらっているから働かなくても良いという。しかしオーエンはそれでも水夫達の仕事を手伝った。何かの役に立っていたいと言う気が強かったからでもあるし、これからのことをあまりじっくり考えたくないと言う思いもあったからだ。
 これからどうするか、オーエンははっきりと心を決めてはいなかった。バレル・アーバーに帰るか、アルビオンのどこかに住むか、それとも船の仕事をするか。バレル・アーバーに帰って元通り果樹園に落ち着くべきだと、オーエンはずっと思っていた。しかし、一度冒険の醍醐味を知ってしまうと、単調な村の生活に自分は満足できるだろうかと言う思いも強くある。村人は誰一人として、自分の村から動かず、決められた生活を送り、それに満足している。いつも日向ぼっこをしてまどろみ、満足しきっているパケット氏の猫のように。そんな生活に、自分は満足できるだろうか――そう思い、空を見上げると、白い幌をはった飛行船が飛んでいくのが見えた。でもアルビオンまではまだ二日の距離であるし、飛行船は冷たい火の動力基地からあまり離れて飛ぶことは出来ない。こんなところに基地もないはずだが――そう思い、船長に知らせに行ったころには、もう飛行船は見えなくなっていた。

 その夜、激しい嵐が襲ってきた。船は激しく揺れ、波が甲板に打ち付け、積荷のいくつかが解けて中身が流れ出していった。幸い危険な反応物はなかったが。水夫たちはこれ以上積荷が流失しないよう、甲板を右往左往し、ロッチ船長は舵を握りながら、正しい航路に戻そうと苦闘していた。オーエンはどこへ向かっているのかを知ろうとパングロス提督にもらったドリームラインコンパスを取り出したが、両方とも針がくるくる回ったり、ふらふら揺れて、船酔いしそうになるだけだった。
「こんな嵐は初めてだ」船長は言った。「風と潮流で流されて、コースを外れた。晴れたら正しい航路に戻せる自信があるが、今はともかく沈まないようにするのが先決だ」と。
「船長! こんな中ではそんなに持ちこたえられそうもありません!」
 昼間チェスをしていた水夫たちが駆け込んできて言った。
「嵐はきっとすぐ、おさまるよ」と言うオーエンに、「海の上ではウォッチメイカーの気象錬金術は使えない。だからすぐに収まるアルビオンの大雨とはわけが違う」と言う水夫達。そんな中、船長が声を上げた。「見ろ! あそこに何かある!」
 オーエンは打ちつける波飛沫と雨の向こうに目を凝らした。はじめは何も見えなかったが、微かに瞬く光が目に入った。
「あれはなんだろう? 海図から外れた場所に何かがあるなんて、あるんだろうか」
「いつものコース以外の場所に何があるか、私たちもほとんど知らないんだよ」
 船長は言う。その時、激しい大波が打ちつけ、船は大きく揺れた。積荷のいくつかが、海に流されていった。
「灯りがあると言うことは、あそこに誰かがいると言うことだ。ちょうど必要な時に、奇跡が起きたのかもしれない」船長は青ざめながら言った。
 オーエンもそれは疑っていなかったが、しかしあまりにうまく行き過ぎているような気もした。あれは島か、他の船か、それともただの目の錯覚か。ともかくそこは安全な場所である可能性がある。船長は船の出力を上げ、明かりを目指した。その灯りはだんだん強さを増し、激しい雨を突いてはっきり見えてくる。安全な避難所までもうすぐだ――
 あそこは地図にはない港なのかもしれない、そう思いオーエンは船首に出、目を凝らした。しかしその灯りまでまだ少し間があるその時、オーエンは不自然な波と影が行く手に現われたのを見た。そこは安全な避難場所なんかじゃない――
「岩礁です、船長!」オーエンは叫んだ「危ない!」
 しかし船のエンジンは止まらず、船は突き進み、そして座礁した。船底は漁師が鱒をさばくように切り裂かれた。
 船の上にいた人々はみな宙を飛び、船壁に激しく叩きつけられた。ロッチ船長の頭は割れ、血を流したまま甲板にぐったりと倒れた。エンジンの出力が上がっていたので、その勢いでなお船は進み続け、最後にボイラーが爆発した。
 その激しい音響に入り混じって、オーエンは聞こえるはずのない歓喜の叫びを聞いた気がした。

 船は浸水し、沈み始めた。水夫たちは救命胴衣を着けようとしたが、それも風と波に攫われていく。彼らが船から海の中へ、勇敢にも――それとも愚かにも飛び込んでいっては、波にさらわれたり、岩に叩きつけられて死んでいくのをオーエンは呆然と眺めていた。そして彼はロッチ船長を救おうと、懸命になった。ぐったりした船長に救命胴衣を着せ、「助けて!」と叫ぶが、答えるものはいない。そして大波が押し寄せ、意識のない船長の身体を海に流していった。波に巻かれ、救命胴衣も脱げて、その姿は海の中に消えていく。オーエンは叫びながら、なんとか波の来ない場所に逃げていき、ロープを自分の胸のあたりにまきつけた。この岩だらけの波の渦巻く海の中に落ちたくはなかった。
 その時、彼は下の方から聞こえる幾多の叫び声や歓声の出所を知った。激しい雨を突いて、人々が現れたのだ。彼らは奇妙な服装をしていた。撥水性のある外套とフード、そして長靴を履き、人間の鎖のように、陸地に伸びたロープでお互いに身体を縛りあって進んできている。
「助けてくれ!」オーエンは声を上げ、彼らはこっちを見たが、救助よりも船の宝物を奪うことに一生懸命なようだった。積荷の宝石を背中にしょったリュックにつめ、持ちきれなくなると、再び滑りやすい岩礁の上を、よろよろと戻っていく。オーエンはなお助けを呼び続けた。
 二人の水夫が岩礁の上になんとかたどり着き、息も絶え絶えに助けを呼んでいた。しかし奇妙な人々は、恐ろしいことに彼らを棍棒で殴り殺した。水夫たちは再び波間に消えていき、岩礁の飛沫は赤く染まった。
 気がつくと、船の乗組員たちは一人残らずいなくなっていた。自分がただ一人生き残った――略奪者達が殺しに来るまでは。船は激しく揺れ続け、オーエンはロープに捕まりながら甲板を移動した。再び大きな波が来て、積荷の箱が壊れ、アトランティスの鉱物が甲板に散乱した。オーエンはその中にあった、比較的大きな石を握り締めた。パングロス提督との仕事で、彼はそれがなんだか知っていた。ドリームストーン。もし攻撃者が自分に襲い掛かってきたら、これで抵抗するつもりだった。
 略奪者達が船の甲板を探し回り、オーエンに近づいてきた。と同時に、大きな波も近づいてきた。オーエンが応戦しようと石を持った手を振り上げたとき、その大波がかぶさり、船は大きく揺れて、オーエンは船壁に頭を強く打ち付けた。無意識の暗闇は夜の海よりも暗かった。





第25章


 再び気づいた時、オーエンはまだ自分が生きていることに驚いた。彼はぼろを詰めたマットの上に寝かされていて、毛布に包まれていた。もしかしたら嵐も船の難破も船長の死もすべて夢だったのか――今まで自分の夢はすべて偽りに終わってしまったが、逆に悲劇も夢であったのか――いや、それはすべて現実なのだ。
 彼が寝ていたのはみすぼらしい小屋の中で、窓は開いていた。新鮮な空気の中に、強い潮の匂いがした。頭と左腕には包帯が巻いてあった。オーエンはベッドに上に起き上がってうめいた。ここはどんな病院なんだろう――
「あんたはもっと早く目が覚めると思っていたわ」尖った女性の声がした。見上げると、白髪交じりの黒髪を垂らした、黒い服に鮮やかなマゼンダ色のスカーフを巻きつけた、お尻の大きな中年の女性がいた。「魚のスープを作ったんだけど、冷めちゃったじゃない」
「すみません」オーエンは自分の看護人がいたことに驚き、そして思い出した。船が難破した時、ロープで互いをつないだ人々がやってきて船の財宝を奪い、助けを求める水夫達を殴り殺した。野蛮人、海賊――彼女もその一味なら、自分も殺されるかもしれない。とは言え、今までにその機会は十分すぎるほどあっただろうが。
「あなたは誰です?」オーエンはかすれた声で聞いた。そして今まで自分が叫び続けていたために、声がすっかりガラガラになってしまったことに改めて気づいた。
「あたしはザンドリナ。まあ、覚えてくれなくともいいけどね。あんたのことは知ってるよ。バレル・アーバーのオーエン・ハーディだろ?」
 オーエンは相手が自分の名を知っていることに驚きながら、再びたずねた。
「それで、あなたたちは一体なんなんですか?」
「あたしたちは海の自由民さ」ザンドリナは誇りをにじませながら答えた。
「でもあなたたちは僕らの船を難破させた」
「だから、あたしたちはレッカー(難破させる者)とも呼ばれてるのさ」
 レッカー?! 相手の正体に驚きながら、オーエンは起き上がろうとして、頭の痛みにうめいた。ザンドリナは身をかがめてオーエンに生ぬるい魚のスープを食べさせた。
「なぜ僕の名前を知っている? それにどうして僕を助けてくれたんだ?」と言う問いに、
「彼があんたのことを話してくれた。あんたを助けるように言われたのさ」と彼女は答える。「あんたの怪我が治ったら、きっと役に立つだろうって言ってね」と。

 よくわからないながら、オーエンは再び眠り、目覚めた時には幾分気分が良くなっていたので、外へ出てみた。そこはたくさんの難破船の船体が集まって島のようになった場所で、何本ものマストの間をはり渡したロープにカラフルな洗濯物がはためき、人々は残った船室を使ったり、甲板の上に掘っ立て小屋を建てたりして住んでいた。漁に出ていた人々が小船にたくさんの魚を積んで戻ってきていた。
 小船が寄り集まった先の甲板に、木製の船体に白いほろを張った飛行船を見つけた。それはあの時、船から見えたなぞの飛行船で、その正体はレッカーたちが獲物を見つけるため、偵察として飛ばしたものだったのだ。
 オーエンの頭は痛み、包帯の上から触ってみると、まだ新しい血がついてきた。
「うろうろしなさんな。もう昼ごはんの時間は過ぎたよ。まだ少し残飯はあるけどね。あたしはあんたの世話を頼まれたんだ、ダイアモンド二つで。でもこんなに手間がかかるとは思わなかったわ」ザンドリナが来てそう言う。
「僕は懐中時計を持っていないから、時間がわからないんだ」オーエンは答えた。
「それで、あんたたちは――みんなレッカーなのか?」
「海の自由民さ」彼女はそう訂正する。
「あんたたちは海賊じゃないか。あんたたちはロッチ船長を殺した。良い人だったのに」
「あたしたちはハンターなのさ。船を狩るハンターなんだ。お宝を求めてね。あんたたちの船は、収穫がたんまりあったよ。筏が沈みそうなほどね」
 ザンドリナにはまったく罪の意識はないようだった。しかしオーエンはそのために犠牲になった多くの人々のことを考えずにいられなかった。
 レッカーたちは船の残骸の間を飛びまわり、騒々しい音楽に合わせて踊っていた。男たちは皆あごひげを生やし、緩めの上着にきつめのパンタロンと言ういでたちで、腰に短刀をつけていた。彼らは騒々しく、荒っぽい人々で、お互いに小突きあったり身体をぶつけ合ったりしていた。その笑いは愉悦とあざけりが入り混じっているようだった。
 ザンドリナはオーエンに食事を持ってきながら、面倒を見るのはこれで最後だと言った。「後は自分でなんとかしな。ここではみんなそうしてるんだから」と。そうしてオーエンが冷たくなった食事を食べ終えるのを待つこともなく、さっさと行ってしまう。
 食べている間にも、あちこちで喧嘩が勃発していた。殴りあった末、一人が海へ落ちたが、誰も助けない。その男は自力であがってきて、また喧嘩をしている。オーエンは食べ終えると、再び外へ出て行ったが、誰も彼に注意を払うものはいなかった。チラッと見るだけで、誰も話しかけても来ないし、そばによっても来ない。ただ自分達の食い扶持が減ると言う感じでしか、捕らえていないようだ。オーエンは彼らを好きにはなれなかった。彼らは自分たちを自由だと言っているが、恐ろしい無秩序があるだけだ。しかしどうして彼らは自分を助けてくれたのだろう――
――彼があんたを助けるように言った――ザンドリナはそう言っていたが――

「君はずいぶんランダムなコースを辿ったようだね、バレル・アーバーのオーエン・ハーディ」聞き覚えのある声が背後からした。振り向くと、男があごと太い眉を上げ、尖った顎鬚を撫でながら自分を見ていた。錬金術シンボルが刻まれた手と、ひどく火傷を負った手。「おかげで君を捕まえるのに苦労した。ウォッチメイカーの運命計算機がなければ、無理だったかもしれないな」
 オーエンは驚きに打たれた。その目を最後に見たのは、クラウンシティでマスクに覆われた顔から覗いていた時。その時彼はオーエンに起爆装置を投げたのだ。
「あんたはこんなところで何をしているんだ?」
「レッカーたちは私の同類なんだよ。まあ、当然だろうが」アナキストは答えた。
 オーエンは改めて自分がどんなにこの男を憎んでいるかに気づいた。アナキストは数千人もの人々やウォッチメイカー、時計仕掛けの天使たちや冷たい火の源、そしてカーニバルの人々――とりわけフランチェスカも含めて――を破壊しようとし、あまつさえその罪を自分に被せたのだ。
 アナキストは周りを指し示しながら、話し続けている。
「私が彼らに私の大きな使命の話をした時、連中はそこに可能性を見出したようだ。彼らは船の財宝を奪える。私は船の輸送の邪魔をして、ウォッチメイカーを妨害できる」
「あんたは僕を助けろと連中に命じたらしいけれど、どうして僕が船に乗っているとわかった?」
「いくつかの分岐ポイントを追っていって、わかったんだ。君は重要な人だからね」
「僕は誰にとっても重要な人なんかじゃない」
「それゆえに、君は必要な人間なんだ」アナキストは顎鬚を軽くはじいて微笑んだ。
「私は神秘の天使。ウォッチメイカーが作り出した悪夢。そして君はその要だ――スタビリティを破壊するために、重要なパーツなんだ」





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